僕は人間がどうしても好きなのかな。

それともやっぱり嫌いなのかな。

FacebookでもTwitterでも、脱個人というか、自身の宣伝や告知ばかりの投稿はどうしてもスルーしちゃう。

企業や団体のアカウントならそれでいいんだろうけど、個人のアカウントでその人の「匂い」のない投稿はつまらなくて時にミュートしちゃう。

なんでかなぁ?

ところで僕はお坊さんの友人が多い(唐突だ)。

そんな友人は、僕が個人的に、その個性が好きな人たちだ。もちろん友人らの宗教への取り組みや、様々な社会活動もリスペクトしている。

が、やっぱりその「人物」が好きなのである(友だちだから当たり前だけど)。

仏教や宗派の教義にいくら詳しくても、「その人」が感じられなければやっぱりつまらない。

理想や持論に自己同一化して、とてもロジカルで議論に強い方もいる。が、友だちにはなれない(お近づきになりたいと思わない。惹かれない)。凄い能力だと素直に関心はするんだけども。。。

僕の先生は、仏教「を」学ぶのも大事だけど、仏教「に」学ぶことの方が何より大事だと言っていた。

仏教は「人間が『真の人間』になる道だ」とも仰っておられた。

もちろん言うまでもなく、仏教は「仏になる道」であるが、先生の仰るその『真の人間』という言葉が最近ますます僕の心に響いている。

言葉をかえれば「私がますます私になる」と言ってもいいかもしれない。

一見「私」を出さずに「教え」を語る人が「無我」っぽく見える。

「私」をあらわにして「実存」を語る人は「エゴ」っぽく見える。

しかし、僕の関心は「人物」なのである。この人はいったいどんな人なんだろう、と惹かれる人に関心があるのである。

その人はどうしてそうなったのか。どうしてあんな雰囲気で生きているのだろうか。どうしてあんな行動や考えをするのだろうか。

それは仏教の影響かもしれないし、または全く違う理由からかもしれない。(果たしてそんな線引きはできるのだろうか)

仏教の専門用語を使っていれば、何か自分は仏教している気になるし、仲間うちではその概念で了解しあえたような気になれる。

もちろん趣味やオタク的なマニア談話もありだと思う。それはそれで楽しいものだ。でもそれをできるのは同じ知識を共有している同じ穴の仲間だけだ。

何が言いたいのか分からなくなってきた(笑)

たぶん職業や思想に同一化した人といると寂しくなるんだ。あなたはそんな人じゃないでしょって。勝手に思っちゃう(笑)

生きている人の言葉が聞きたいのだろう。生身の人間に会いたいのだろう。

構えや鎧をまとわない、普通の人間に会いたいのだろう。

そして、こんな事を書いている僕自身こそが、そんな人間になりたいんだろう。

なりなさいよ。

はい。


たぶんここまで読んでくださった方は僕を直接知っている方だけでしょう。支離滅裂な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。またどこかの飲み屋で聴いて下さいm(_ _)m


enju拝


追伸:BGMは長渕剛『人間』

歌:長渕剛
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛

そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから



息が詰まるほど 悲しかったから

あなたにしてやれることといったら



あなたと空を見て あなたと泣いて

あなたのその手を 握りしめることくらい



あなたのこの手が 温かいのは

あなたのからだに 血が流れているから



そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから



人を愛するたび 切なくなるけれど

やっぱり独りでは 生きてゆけません



苦しみの数だけ 涙を流したら

やさしきあなたを 迎えにゆくから



美しい心と やさしい命が好き

いつでも いつまでも

そんなあなたのそばがいい



そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから


そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから


そうだ 俺たちは人間だもの

二人のからだには 血が流れているから