◉探究

「教える人」と「教わる人」という固定的な関係のメリットとデメリット。
「互いに教わり合う」ことが可能になる「場」と、何を教わるかという中身の問題。

◉とりあえずの今日の法座でのメモをノート。

何事も、人に教えると自身が何倍も学べるというけど、法話もそう。先生の話を聞いてるだけより、自ら話すことでさらに我が身で味わえる。だからみんなで話し合い聞き合う場が大切だな。話者・聞者を固定しないで、互いに話し聞き合う法座を。それはとても難しいけど、場の守人次第では不可能ではない。

お勤め中、この後どんな話をしようかと色々思い巡らすものだけど、せっかく右脳を活性化させてるのに左脳働かしててもったいなと。読経で思考は放下して、聴衆に向き直って起こってくる(降りてくる)言葉を待てばいいのに。寂滅現前ではないけど、そんな感じでないと「人間(個人)臭」が出ちゃう。

「人間(個人)臭」が出ると、その「人」ばかりが見えて「法」が見えなくなる。「人」が消えてると「法」が顕れる可能性が高まる。つまり「使い」としての空っぽの「器」になり得る。「人間(個人)臭」は聴衆の好き嫌いを生むし、それはその「人」の話、人柄であって、「法」とは離れてしまう。

空っぽの器状態の時はよく、憑依するというか、降りてくるというか、この身体が使われているというか、そんな感覚になる時がある。といっても忘我でなく、それに気づいている意識と共に。そんな状態の時は、その「何ものか」に安心して任せていれば、それが勝手に仕事をしてくれる。

しかしそれは、空間設定というか、舞台設定というか、それに相応しいセッティングがなされているかどうかが重要だと思う。セッティング次第で魔も入れば邪も入る。また少しでもエゴが動けばそれに利用される。だからとても危険な状態でもある。

(「何ものか」を解釈して言語化して話す主体は「私」という文化で形作られた「器」であるが、その違いが様々なバリエーションとして表れている。そのうちのどれが正しいかという基準は個々の「器」が判断しているに過ぎないのかもしれない)

そのようなことは誰にでも起こる。もちろんそうなりやすい体質の人もいるし、そうなろうと訓練している人もいる。でも結局、自分のことは自分で見れないのでやっぱり他者が重要になる。で、役割を固定しないで互いに聞き合うとうところに戻る。