岐阜県は大禅寺、根本一徹住職の主催する『山カルチャー』終わる。

http://revision.enju.in/workshop/yama-culture20140621.html

【雑感】

思えば私という存在は、気がつけばこの世に既に存在していた。何処かの誰かが言っていたように、まさにこの世界に投げ込まれた存在だったのかもしれない。

そういう訳だから、今ここに、現に生きる人間が、それぞれに「何か」真実なるものを探求したり、生命の本質的な「何か」と触れるための仕方や場が古来から大切にされてきたのだろう。

そうした人間の歴史の中で、それらが体系化され脈絡と受け継がれてきた。我々の暮らす日本ではそれは「道」と呼ばれ、広く文化としても今日まで語られ受け継がれ物語られてきた。

時々に様々なカウンターカルチャーがそれらのバランスを取り、または潰し合い、あるいは弁証法的にそれらの伝統を時々にアップデートしてきたのだろう。

現に生きて存在し、その存在ゆえに悩み苦しむ人間が「何か」を求めて、偉大な伝統や、逆に新しい文化にその「何か」を見出す可能性を感じてきたのだろう。

「何か」とは「何か?」。

そう「何か」としか言語化できない、言語以前のモヤモヤやヘドロモドロで把握しようもない「何か」。

これまでは、その「何か」を培う体系は、宗教的伝統が担ってきた。

檀家制度が崩壊しつつある現在、個としての探求者が伝統的な体系にコミットする要素として、以下の3点を挙げてみる。


1.宗教や宗派や会派の理念や思想哲学に惹かれて。

2.行為や修行としてのプラクティスやメゾットや手法に惹かれて。

3.あるいは指導者や人物のカリスマ性や人柄、または仲間・共同体に惹かれて。


一つの何かを自らの決断で選択する熱心な人ほど、神経症的な信仰や、カルト的な信仰形態を経ることが多いように見受けられるし、必然的に独善的、排他的な空気が形成される。

また指導者のカリスマ性や人柄に就く危険性も度々指摘されてきた。ドグマと化した宗教的権威性も同じことだろう。

かといって、宗教色や宗派色を薄めた所謂ユルい場作りには、世俗迎合的、仲間同士の仲良しサロン的な雰囲気が漂い、実存的飢餓状態にある探求者には物足りない。

あるいは、情報化社会となり、ほぼ世界の伝統的な経典やテキストが自由に読め、またその指導者とも縁を結べる時代にあって、あちこちを渡り歩き、様々な思想のパッチワークに奔走し、結局は根本不安を募らせてしまうという、情報遭難、スピリチュアル難民に陥ってしまう人も少なくない。

今回、集まった人々は、アーティストや宗教家やカウンセラーや場作りをしている方が多かった。もちろんその他の様々なあり方の方々も。

紐解いて見ればいづれも探求者であった。いや本質的に人間とは、自らや世界を問わずにおれない存在だと言えるだろう。

今回ここ大禅寺で、上記1.2.3を超える場に(あるいはその可能態としての場に)立ち会えた思えるのは、僕だけだろうか。

振り返れば、現代の古くて新しい「場」としての、確かな胎動を感じた二日間でした。

そんな場に立ち会えたことに感謝し、出会えた仲間にお礼申し上げます。

マスコミに取り上げられたり、流行に迎合するのでもなく、つながりあう人と人を通じてこのような場が起こりつつある今は、最もスリリングな時代なのかもしれない。

稀有な時間をありがとうございました。もう二度と会えなくても、もう既に出会ったという感覚。

無垢な存在は美しい。。。。

それぞれの道を歩み行きましょう。

また、ご縁にまかせて。