私の「この命」には限りがある。
あなたの「その命」にも限りがある。

無常の風が吹く度に、ほんの一瞬だけ、その事実に驚きがたつ。

あの日、私は誓ったはずだった。

しかし、すぐにまた、うかうかとした日暮しに飲み込まれてしまう。

あの日「この命」を本気で生きようと決めたんじゃなかったのか。

あの日「その命」と真剣に接していこうと決めたんじゃなかったのか。

あの日常の裂け目で、私は何を感じたのだったか。

思い出せない。

思い出せない。


あの裂け目に立ち尽くし、漠然と、ただ漠然と、私にとって本当に大切なものを、「この命」は遥か遠くに予感しただけだった。

ただ、あの日思い知ったことは、私が日々大切だとしがみついているものは、すべて虚しいものだという感覚だった。(虚しいとは移り変わ実体がないということ)

その虚しいものに、しがみつき、こだわり、離してなるものかと、文字通り必死になって、快楽、損得、勝ち負けに身を窶している。

成りたい自分、欲しいもの、守りたい何か。それらは本当に実のあるものなのだろうか。あるいは虚なるものなのか。一つ一つ問わずにおれない。

日常に、この世界に、この生活の延長線上に、虚ではない本当のとこを求めても、それは時間の中のいたずらごとなのではないだろうか。

何故、死を、限りある生を、無常を観よと教えられてきたのか。

それは、夢から覚めるためだった。迷いを迷いと知るためだった。

その時人は真に自己一致するのだろう。

その時の人は他者を深く慈しむ心が発動するのだろう。


なのに、そうと“知っている”のに何故、決して逃れられない「この命」の死を、人ごとのように遠くに追いやってしまうのか。

果たして私が「この命」と言う時の「この」とは、実のところいったい何なのだろうか。

『「命」に帰る』とは、何事を示しているのだろうか。


限りがある「この命」とは、限りがない「命」と如何に関係しているのだろうか。


裂け目からまた、線のように繋がったものと錯覚した日常にいる私の足元には、常に深い淵が口を開けている。


嗚呼うかうかとまた、今日も過ごしてしまった。


このままで、落ちてくんだな。


ただ「この」もろとも落ちていく。


南無阿弥陀仏

友よ。最期のその身をかけたご教示、有難う御座いました。

合掌