542135_380928868613855_100000902355311_1179478_2067193760_n被災地、特に仮設住宅に行って感じたこと。

「被災された方同士でその体験を語り合うことがほとんどない」

それは、仮設に集まった被災者は、相手がどれくらいの被害を受けたか、どれくらいのものを失ったかが分からないために、もし相手の方の被害のほうが悲惨だった場合を気づかうと、とても自分の話しはできないという思いがあるからだ。

自分より大変な思いをしている人がいくらでもいる。それでも歯を食いしばってがんばってらっしゃる。そんな人を思うと自分はまだ恵まれている。だから自分も泣き言なんて言ってられない。

東北の方々は、我慢強く、不平不満を口にしないと言われるが、そこには他を気づかう思いやりがあったのだ。

震災から一年が過ぎ、ようやく泣けるようになったと語る方が多い。みんなが必死に耐え、がんばっていこうという空気の中、泣き言も、不満も、悲しみも、寂しさも口に出せなかったという。

そんな苦悩の中の、心理ケアや、傾聴ボランティアが入っていったが、かえって被災者の方々の心を傷つけ、今では「傾聴ボランティアお断り」という仮設住宅も多いという。

なぜ、彼らが被災者の心をケアするつもりが、かえってその心を荒らすことになったのかは、それを行なった方々の分析にまかせるが、現地では、県外からやってきては去る心理ケアの人びとに不信感を持っている方々も多い。

しかしながら、先に書いたように、仮設住宅では被災者の方々は「あいさつ程度」の会話しかできない。互いを気遣う故に、だ。

だからやはり外部の人間になら話すことができるというのだが、その外部の人間が何も傾聴ボランティアだとか、心理ケアチームである必然性はないということを我々は見てきた。

信頼できる他者とは何だろうか。

自分は何物なんだろうか。

僕らも今年一年の関わりを通して、それを問われるのだと思う。

いや、すでに問われ続けている。