今朝の風景。

幼稚園くらいの女の子とお母さんの会話。

娘「ねぇお母さん。雪ってどこから降ってくるの?」
母「(数秒の沈黙の後)「◯◯ちゃんはどこから降ってくると思うの?」

僕は関心しました。

もちろんこのお母さんの内面でどういうことが起っていたのかは不明です。本当は子どもに分かるような答えを言えなかっただけかもしれません。

でも、お母さんのこの応答によって女の子はとても自由に、そして生き生きと素晴らしい発想で何かを話し続けていました。お母さんは嬉しそうに、ただその娘の純なエネルギーを聴いていました。

そういう現象を今朝目撃しました。

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この「どこから」って深い問いですね。

「空の雲(水蒸気)が冷えて氷となって落ちてくる」という知識のある大人には、「どこ」といえば「あそこ」くらいにしか思わない。

知識のない子どもは、それこそもっと遠の方から、自分の奥深くの何かに問いかけられていたのかもしれませんね。

例えば「私はどこから来たの?」「どこへ行くの?」という問いのように。

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急に話は変わりますが、専門家って質問されると答えまくる人が多いですよね。

嬉しいんですよね、きっと。

でも、質問される方がなぜその問いを持たれたのか、本当は何を知りたいのかということに意識を向けることってなかなか難しいんですよね。

質問ばかりする方がいたとして、それに丁寧に答え続ける先生も立派ですが、知的好奇心という貪欲は結局どこまでたっても満たされません。真面目な人ほど、次から次へと疑問が生じるものです。(実は質問される方は相手の応えを本当は聴いていない)

しかし自分の本当に知りたいこと、知るべきことは、そういった知識を積み重ねて自分の小さな頭で理解できるものなのでしょうか。例えば、無量とか、無限とは、全体とか、無とか、己とか、◯◯とか何とかいう、そういったものって。。。

例えそういう高尚なことをペラペラ説明できたとしても、玄関の靴を揃えてなかったり、歯に青のりが付いたままだったり、人の足を踏んだまま気づいていなかったりしたら、それはそれで困ったちゃんですよね。
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うーん。何を言いたいのか(笑)

たぶん自分の所で言えば、

「仏教(を)学ぶ」でなくて、
「仏教(に)学ぶ」ということかな。

長文失礼しました。

読んでくださってありがとうございます。

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