shinranmyogo312月は矢のように過ぎ、うかうかバタバタと終わろうとしています。来年があると当たり前のように思っていますが、それは私の希望(妄想)にすぎません。
 
 近年ブログというものが流行っていて、web上ではそこかしこに人々の声が刻まれています。思うのです。その人々が亡くなっても、ブログは残ります。主を失い、二度と更新されないそうしたブログは毎日増え続けているでしょう。
 
 私もなんとなくブログを綴っていますが、やっぱり書き残しておきたいことがあります。
今まで、いろんな人と出会い、いろんな事を学び、いろんな経験し、たくさんの思い出ができました。

泣き、笑い、怒り、悲しみ、哀れみ、慈しみ、嫉妬、情熱、虚しさ、寂しさ、情けなさ、嘘、偽り…

憶えていること、あと、膨大に忘れさられた身に覚えのない行い。

どれが、置いていかなければならないもので、
どれが、置いていけないものなのか。

「死」はいつかくるものでなく、今。
「後生」はあるないでなく、今。

死ぬのは、いつも、今。

昨日思った明日が、必ず今になったように…
起こることは常に今。
昨日でもなく、明日でもなく只今、起こるのです。

それがその如く見えないのも悲しい私の姿です。

私の持っている種が花開いたのが今です。
その種から世界は立ち現れてくるのです。
だから厳密には、行くも来るもないのです。
(私には来た去ったと感じられるのですが)


この今に、膨大なご恩を受けながら、何一つ返せない私。
それどころか、日々悪しか造れない私。

この身を喜ばせることしかできない私。
明けても暮れても、身を喜ばせ、心を楽しませることしか知らない私。


何のために生まれてきたのか。

日々夢中で何をやっているのか。


真っ暗なまま、何処へ往くのか。




いや「これでいい」と、

自分では言えない。

言ってもしょうがない。

いいもわるいも知らないのだから。




仏さまは、なんといっておられる?



仏とは「目覚めた者」の意ですが、


私一人を必ず救おうというのは、阿弥陀という仏さまのみ。



「南無阿弥陀仏」一つで満足できなければ、


生まれ甲斐も、生き甲斐も、死に甲斐もありません。



私は、こんなだけど、


しあわせです。





すべて、矢のように過ぎ去り、すべて泡のように消えていきます。


どうか、間に合いますように。


合掌