今日はスピリチュアル的・心理療法的な流れの雰囲気を借りて、「真実(性)」と「有用性」についてちょっと書いてみます。
独自の世界観と、独自の理論、実践をもった、気づきや成長に関するそれぞれの知識を提供するものには、スピリチュアル系・心理療法系・自己成長系・自己啓発系・精神世界・占い・NEW宗教系と、巷にはそういうものが無数にある。ちょっとパソコンで検索すれば、たちまち何がどうやら迷ってしまうくらい、現代ではそういう情報が溢れている。

いわゆるアカデミックな流れは、それなりに学としての体裁をとっているので、ある意味、慎重であり、ある意味、煮え切らない感もあるが、そういう学としての体裁をとらない民間療法的なものは、百花繚乱・魑魅魍魎、それだけにまた、不条理や非合理なものに出会って困惑している人には、「ひょっとして」という期待を抱かせるものなのかもしれない。

ところで、スピリチュアル系(と以下乱暴に括ります)って、共時性とか偶然とかご縁とか無意識とか、何かと神秘的に「解釈」する傾向にあると感じる。

「何でもご縁、ようこそ、こうこそ」という雰囲気は、一見、「宗教的な受動性」というか、より大きな文脈、より大きな物語、つまり「全体性」に開かれているかのように思えるが、実際どうだろう。

安易に、それらが無批判に肯定されていないだろうか。それって、やっぱり思考停止ではないだろうか。

非因果的な解釈を個人的に好むのは各々の自由だが、そういった認識によって、いったい何を得ることが目的なのだろうか。歴然たる因果をくらませてしまって正しい認識が可能なのだろうか。

近代合理主義の行き詰まりから、それらを「超える」という文脈から生じた流れもスピリチュアルというブームの背景にある。

しかし一般的にそれらはある種「呪術的」な、あるいは「退行的」な世界観に浸ることで、何らかの癒しや慰めを得ようとしているというのが、昨今のスピリチュアルブームの中身なのではないだろうか。

僕は別に、そういう人たちが感じている幸せな雰囲気に水をさしたいわけではない。そんな権利は僕にはないし、そうしたい訳ではない。

ただ、それがもし、僕の主張によって揺らいだり、あるいは思いも寄らぬ逆縁では崩れてしまうようなものなら(そういうとき「認知的不協和」といってその矛盾が強力に作用することもあるが)、やはりそれは「何かの代用品」、もっといえば「都合のいい幻想」、つまるところそれは「妄想」ということになるのではないだろうか。

(別にスピリチュアルってのは「真実性」を求める営みでなく、「有用性」「娯楽性」を求めるのだ、というのなら構わないのだ。しかし「有用性」や「娯楽性」は人それぞれで、それについて突っ込まれても批判されても、本人の実感は何ら揺るがないだろうが、「真実性」ならばやはり揺れるのだ。「真実」に由来するなら当然だ。)


「あんな人に出会った」、「これもご縁」、「セミナーを受けてみよう」、「あれを買ってみよう」、「友達にも紹介してあげよう」、「この方法を広めよう」、「もっと素敵に、もっと活き活きと、もっと便利に、もっと思い通りに、もっと生き甲斐を、もっと自己肯定感を、もっと、もっと。。。。」

この連鎖が、なぜこの時代、こんなにももの凄い勢いで広がっているのだろうか。それは「この時代の人々が急速に目覚め始めているから」なのだろうか、あるいは「この時代の人々が急速に迷いを深めているから」なのだろうか。

自分の広めたいものが、どういうものなのか、客観的に見ることができるだろうか。もしそれが害であったなら、どうするのだろうか。「有用性」と「娯楽性」が自身の内に保証されているからといって、それを広めることが、正しさや素晴らしさと直結してしまうのは何故だろうか。。。

本質は現象となって顕れるかもしれないが、現象は必ずしも本質をともなわない。

こうしたスピ批判的なことを書くと、僕はそういった方面から嫌われてしまうだろうなぁ。スピ友達多いのに。。。


確かにスピは、分かりやすいメッセージと、単純な理論構成をもっていて、親しみやすいし、そういう方面で仲間も繋がりもたくさん持てて、現代的にとても有効で即効性のあるムーブメントだと思う。

しかし、単純で分かりやすい反面、その「物語」を無批判に受け入れて、思考停止して盲信してしまい、真の自己を問う、ということが顧みられず、偽りの自己はそのままに何らかの物語に組み込んで正当化する、というような、安易な信仰(運動)へと堕してしまう危惧を感じる。

もちろん、すべてがすべてでないのは言うもでもないが。

本質をつかんでいて、自由自在に方便を駆使する天才も実際世の中におられるのは間違いない。



いろいろな情報が溢れているが、それらを差して、どれがいい、どれが悪い、なんて話をしたいのではなくて、それは何を目的としているのか、自分の目的は何なのか、その構造が自分で見えているか、ということを問いたいのでした。まぁ、問題提起、そういう自己を客観化して批判するきっかけの為です。





▼「真実性」と「有用性」「娯楽性」


つまり


▼「本当のもの(こと)」と「役に立つこと」「楽しいいこと」

は、イコールではない。


と、いうことが言いたかったのです。





携帯電話・自動車・クーラー等々、役に立つもの、楽しいことはあっという間に広まります。買う人がいるから売る人がいる。実際に手にした人は嬉しそうだし、持たない者は羨ましい。

でも、それらは「なくてはならないもの」「よりどころになるもの」、まして「ほんとうのもの」ではありません。

気づきや自己成長のためのセミナーが、雨後の筍のようにひしめき合っているのも、それらが人間にとって素晴らしく、役に立つという信念のもと、両者の利害が一致しているからでしょう。需要と供給の経済システムがそれに拍車をかけて「人の生き方」をビジネス化しているようです。

幸せになりたければ、成長しなければならない、もっと気づきを得なければならない、という信念がそれを支えているんですね。


そうして人は「ほんとうのもの」を、それこそ心の深いとことで求めがら、その代用品である「何か」を求め、多額のお金と時間を費やして、より新しいもの、より成長できるもの、より高いスキル、より多くの知識、より深い体験、より、、、、、、(以下同語反復)。


簡単なもの。わかりやすいもの。HOW TOもの。コントロール可能なもの。矛盾のないもの。シンプルなもの。パッケージ化されたもの。楽して手に入るもの。カジュアルなもの。ファッショナブルなもの。権威のあるもの。流行っているもの。新しいもの。美しいもの。正しいもの。。。。。




でも、「ほんとうのもの」って、何?


そんなの欲しいと思ったことないですよね。



もし、それが自分(エゴ)に不都合なものでも、欲しますか?


もし、それが自己(エゴ)脅かすものでも、欲しますか?


自分(エゴ)が欲しいモノって、「ほんとうのもの」でなくて、「べんりなもの」「たのしいもの」ですものね。


だから、欲しいなんて思わないのです。


そいう風になっているのですね。


パラドクスです。


自己のありのままをみつめて、その自己に絶望しなければ全く意味不明なままですが。。。。





あら、今回はちょっと説教くさかったですね。。。。


この記事も、「真実(本当のもの)」を、「有用性(役に立つもの・便利なもの)」「娯楽性(楽しいもの・我を忘れるもの)」にすり替えたり、利用したりしようとする、あんぽんたんな自分への戒めの意味で書いています。





ご静聴ありがとうございました。。。