稲津紀三著『中論と他力信仰』を読む。
仲間に頼んで又貸しして貰いました。
今は絶版で入手困難な本です。

筆者がどのように道を求められて、師や仲間に出会って、どのような翻り(廻心)があって、どの立場に立って、仏典の言葉を味わっておられるかが、透明性をもって伝わってきます。

そいうった体験的な肉声の聞こえない専門書が多い中、仏教・浄土真宗の救い・目覚め・信仰・求道を赤裸々に綴っている体験的な仏教書として、非常に価値のある本だと思います。

世間でよく聞く「みんなそのままで救われているのですよ」といったものが信仰なのでもないし、救いでも・目覚めでもない。

耳障りのいい言葉に酔って、慰められて、癒されて、安心するのがスピリチュアルだとか悟りだとか思っておられる方、一読を勧めます。

執拗にエゴを指摘するものでさえ、それを聞く同じエゴが手を変え品を変え現れて、自分で自分を騙していくのですから。

といっても、入手困難な古書。裏表紙には定価「壱円五拾銭」の文字が。。。

一般の方が、ネット等でも入手できる「仏教・真宗の体験的なお勧めの本」はやはり伊藤康善著『仏敵』になるでしょうか?他に良書があれば(入手困難でも構いません)教えて下さい。

※追記:『仏敵』もアマゾンでは売り切れ。中古はプレミア価格ですね。8,500円!
春秋社で定価(1,575円)で買えます。
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-16901-8/




桜井 鎔俊著『我が師村田和上 増補版』は、アマゾンでは中古プレミア価格(6,500〜)。




※こちらも春秋社に在庫(定価2,300円)がありますので、欲しい方はお早めに。
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-16702-1/


でも、上記の本は価値がある、と思いますので、高く買ってももったいなくないですよ。読まずにウカウカと一期をむなしく過ごす方がもったいない!



あと、道を求める、という関係では『虚偽と虚無』が哲学的な「絶望」に案内してくれました。宗教・信仰が苦手なインテリな方はこちらから読まれてはいかがでしょうか。。。




体験とか、求め、を協調すると、否定的な感情を持たれる人(宗門関係者)も多いでしょうが、何も、神秘体験せよとか、苦行せよとか、廃悪修善せよ等といった修行を勧めている訳ではありません。しかし、仏道は単なる思想や考え方、信念や理想ではないでしょう。

ある本にいくら価値があっても、その内容はその著者の「境地」から発せられる言葉であるのだから、「同じ境地」にいないと、本来その内的意味が理解できるはずはありません。

例えば生意気な子どもは、屁理屈をこねて大人の言葉を都合のいいように理解するものです。「冷暖自知」といっても、知るべき冷暖が、知らせたい冷暖と同じかどうかは疑わしいものです。

聖教に理解できない言葉があるのは、自分にその体験がないからです。勝手に読み替えたり、自分の境地に合わせて解釈してしまうことは全く慎むべきことです。わからないことは、わからないと認めることが肝要です。自己中心の末通らないモノサシをこそ疑うべきなのです。

仏教のいう「三量」(聖教量・現量・比量)がいかに大切か。
ウィルバーでは「前超の虚偽」。「知識獲得の三要素」が該当。

世に出回る安物、偽物を掴まされて満足してたら、もったいないですね。大量生産・大量消費の現代にあって、真贋を見極めるのは難しい。真実の教えも、真実の人も、こちらが寝ぼけているから出会っていても気づかない。永延と迷って迷ってここまできたのに。迷いを迷いと知らずにまたまた迷って行くのですね。まったく真実を求める心など、初めからなかった。当然聞く耳もなかった。仏法は不思議です。


釈尊がブッダガヤの菩提樹の下で最高の悟りを開き、その発見した真理を以前共に修行した5人の仲間に教えるためにバーラーナシヤに向かう途中で邪教修行者のウパカに会う。(中略)
しかしウパカは釈尊のこの言葉があまりに高邁に過ぎて、理解できずに、頭を振り、別の道を去っていきました。 
(南伝大蔵経 3巻14-15pp)


三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり
(親鸞聖人 正像末浄土和讃)