武道に関心がある方は、塩田剛三という達人の名を聞いたことがあると思います。
ご存じないかたは、こちらを↓
まぁ、インチキだ何だといろいろ言う人もいるでしょうが、合気道を知らない人がそう思うのは仕方ないので、それはそれで構いません。
まぁ、塩田氏に限らず、どの世界でも名人・達人と呼ばれる人の言葉は謹んで拝聴するに値すると思うのです。以下、興味のある方は付き合ってください。
『合気道修行―対すれば相和す』
という塩田氏の本の中から抜粋。自分の思うところと重ねて感想を書いてみます。
塩田氏の言っておられることは、ごく当たり前なことですが、口先だけで言うのと、その道を極めた人がいうのとでは、やっぱり何かが違います。どの道でも、修行の果てに到達するその道の境地は、言葉にすればとてもシンプルで、誰もが知っているあたりまえなものになってしまうのだろうけど、はやり、その言葉には説得力があります。
なぜここを引用したのか、今書いている時点では分かりませんが…
いま・眺めてみて感想を書いてみます。
うーん。
「言葉が人間を縛ることになる」
ここかな。
僕も、言葉に随分縛られているなぁって。
「言葉を鵜呑み」にしたり、「言葉を知って、本質まで知ったような気になったり」、そして「言葉に縛られて」自分も人も裁いていくようなことって、ありまくりじゃないですかねぇ。僕も、そして僕らの周りにも、あちこちに、いたるところに。。。
また、
「合気道で一番強い技は何ですか」という問いに、
「自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と応えた塩田氏。
かっこよすぎるが、これを聞いて「親鸞聖人と山伏弁円」の逸話を思い出しました。ここは西光先生が新たな視点から読まれた論文がありますね。
あと、
「大切なのは、それぞれの人に、いかに自分自身で本質をつかまえられるような環境を与えてやるか」
ここのところ、僭越だけど、僕も本当にそう思うし、そういう場を自分も創っていきたいなぁって。
問いはその人本人の内から生まれなければ、それは「他人の問い」のままであって、それがそのまま「自分の問い」にはなかなかならない。そしてそうでなければ、その責任を自分で引き受けることができません。
まぁ、ずば抜けた達人・名人なんて、誰もがなれるわけじゃないけど、それはきっと目に見える表面的な「技」であって、誰もがそれぞれのところで自分自身の選んだ道を究めていけば、同じような味わいが生まれるのだと思います。
そういうものをキャッチできたり、感じたり出来ること自体、自分とは無縁な世界ではないということではないかな。
人の言葉に振り回されないで、自分の感覚をもっと信頼してもいいのではないでしょうか。
こんな風にいうのも、昔間違って聞いた言葉に縛られている証拠なのですね。。。
僕もやっぱり、他人の受け売りでなくて、自分の言葉で、自分の表現をする人が好きです。たとえそれが、自分とは違っていても、自分の世界からは間違っているように思えても。
間違えてもいいんじゃないかなぁ。
「真理を知りたい」と言いながら、「絶対間違いたくない」なんて、図々しいことを言っている人に限って、言葉や論理や権威やなんやに自分をはめ込んでいこうとするんじゃないかなぁ。
間違わない人なんているのかなぁ。
間違いしかできないんじゃないかなぁ。
間違わないことは幸せなんだろうか。
気づけば痛いけど。
知れば辛いけど。
見れば目を背けたくなるけど。
自分っていう奴は。
俺ってものがらは。
ねっ!
まぁ、インチキだ何だといろいろ言う人もいるでしょうが、合気道を知らない人がそう思うのは仕方ないので、それはそれで構いません。
まぁ、塩田氏に限らず、どの世界でも名人・達人と呼ばれる人の言葉は謹んで拝聴するに値すると思うのです。以下、興味のある方は付き合ってください。
『合気道修行―対すれば相和す』
という塩田氏の本の中から抜粋。自分の思うところと重ねて感想を書いてみます。
塩田氏の言っておられることは、ごく当たり前なことですが、口先だけで言うのと、その道を極めた人がいうのとでは、やっぱり何かが違います。どの道でも、修行の果てに到達するその道の境地は、言葉にすればとてもシンプルで、誰もが知っているあたりまえなものになってしまうのだろうけど、はやり、その言葉には説得力があります。
「養神館に道場訓はない」
武道の本質は理屈でわかるものではありません。理屈があって、それを他人から聞いてわかった気になってもしょうがないのです。
修行を通じて自分で見いだすということが大切です。そうでなくては本物ではありません。逆に言えば、自分で本質を見いだすことが修行の目的だと言ってもいいでしょう。
私の道場にいらっしゃったことのある人ならお気づきでしょうが、うちには壁に道場訓というものを掲げておりません。そもそも道場訓自体を作っていないのです。
稽古の始めや終わりに、「ひとつ、我々は武道の修行を通じーー云々」と、道場訓を唱えさせることをよしとしている道場もあります。それはそれで結構なことなのですが、私は養神館でそれをやりたくありませんでした。
なぜなら、いくら立派な言葉を並べても、それが押しつけであったなら意味がないと思ったからです。
他人から与えられた言葉は、しょせん他人のものでしかありません。自分の納得によって出てきたものではないはずです。
怖いのは、言葉を知ることによって、あたかもその本質までわかったような気になることなのです。
そうすると、本人の主体がどこかに行ってしまって、押しつけられた言葉だけが一人歩きしてしまう。
言葉が人間を縛ることになってしまうのです。
これでは、個人に本質を理解させることができません。成長がその時点でストップしてしまいます。
ですから、大切なのは、それぞれの人に、いかに自分自身で本質をつかまえられるような環境を与えてやるか、ということなのです。
あくまでも信ずるものは自分自身です。もちろん、それが単に我を張っているだけでは意味がありません。そこが難しいのでが、はやり大切なのは自分でつかむ、自分で感じるということなのです、
他者から与えられたものを、そのままうのみにしていたのでは、主体が自分以外の別のところにあるわけですから、相手に言われるがままにあっちにフラフラ、こっちにフラフラと心が左右されてしまう。これでは本当の真理には到達できないと思うのです。
なぜここを引用したのか、今書いている時点では分かりませんが…
いま・眺めてみて感想を書いてみます。
うーん。
「言葉が人間を縛ることになる」
ここかな。
僕も、言葉に随分縛られているなぁって。
「言葉を鵜呑み」にしたり、「言葉を知って、本質まで知ったような気になったり」、そして「言葉に縛られて」自分も人も裁いていくようなことって、ありまくりじゃないですかねぇ。僕も、そして僕らの周りにも、あちこちに、いたるところに。。。
また、
「合気道で一番強い技は何ですか」という問いに、
「自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と応えた塩田氏。
かっこよすぎるが、これを聞いて「親鸞聖人と山伏弁円」の逸話を思い出しました。ここは西光先生が新たな視点から読まれた論文がありますね。
あと、
「大切なのは、それぞれの人に、いかに自分自身で本質をつかまえられるような環境を与えてやるか」
ここのところ、僭越だけど、僕も本当にそう思うし、そういう場を自分も創っていきたいなぁって。
問いはその人本人の内から生まれなければ、それは「他人の問い」のままであって、それがそのまま「自分の問い」にはなかなかならない。そしてそうでなければ、その責任を自分で引き受けることができません。
まぁ、ずば抜けた達人・名人なんて、誰もがなれるわけじゃないけど、それはきっと目に見える表面的な「技」であって、誰もがそれぞれのところで自分自身の選んだ道を究めていけば、同じような味わいが生まれるのだと思います。
そういうものをキャッチできたり、感じたり出来ること自体、自分とは無縁な世界ではないということではないかな。
人の言葉に振り回されないで、自分の感覚をもっと信頼してもいいのではないでしょうか。
こんな風にいうのも、昔間違って聞いた言葉に縛られている証拠なのですね。。。
僕もやっぱり、他人の受け売りでなくて、自分の言葉で、自分の表現をする人が好きです。たとえそれが、自分とは違っていても、自分の世界からは間違っているように思えても。
間違えてもいいんじゃないかなぁ。
「真理を知りたい」と言いながら、「絶対間違いたくない」なんて、図々しいことを言っている人に限って、言葉や論理や権威やなんやに自分をはめ込んでいこうとするんじゃないかなぁ。
間違わない人なんているのかなぁ。
間違いしかできないんじゃないかなぁ。
間違わないことは幸せなんだろうか。
気づけば痛いけど。
知れば辛いけど。
見れば目を背けたくなるけど。
自分っていう奴は。
俺ってものがらは。
ねっ!