今日は関西大学教授の倉戸ヨシヤ先生による、カウンセリング概論の講義。カウンセリングの語源は、councel=共に考慮する。therapy=to wait(待つ)である。
(そういえば、僕が初めて出会ったカウンセリングマインドを備えた仏道の師も、この「待つ」ということを本当に粘り強くしてくれたことを思い出す)

カウンセラーの訓練で大事にすべき点として、「感性の育成(畏敬の念を持って全身全霊で感じようとする力)」「人間として感じる」「自負するものを自覚する」「限りなく他者や自分に開かれていること」「人間としての尊厳を尊び、他者との不一致を認められること」等が挙げられた。
こうして言葉を羅列しても実感が湧かないかもしれないが、言わんとするところは私なりの経験として感じることが出来る。

倉戸先生は、カウンセリングは医師の行うDSM-4に基づくような症例診断的な方法のみで、事例や事象を見ないような関わりは、非常に問題があるという。何かの理論や基準に当てはめて、それでクライエントを理解したように思ってしまう。それでは「独自の存在としてクライエントの内的世界を、その人との関連に置いて理解する」というidiographicな理解とはかけ離れてしまう恐れがある。自分の都合のいいように理解してしまう過ちである。

また、「クライエントは多面的である」。カウンセラーの「私」の前では、あるいは「私」との関係では、クライエントは、例えば、〜のような面、あるいは側面をみせた、と理解するべきで、面接場面でのクライエントの言動をただちにクライエントの客観的な、しかも全容を示したものと理解してはいけない。

 上記の話は、倉戸先生の体験と通して出てきた言葉であることを感じることができた。また誰もが犯しやすい「思いこみ」でもある。銘記しておきたい。

 また、用語について、医学用語でなく、心理学用語を使用することを強調していた。
例えば、トラウマ→勲章。神経症→人間関係の重荷を背負っている状態。うつ→思うようにいかず八方塞がり、生きるエネルギーの低下、等である。なるほどこの方が馴染みやすい。言葉によってそれを受け止める際の感じはかなり違ってく。心理用語に関わらず、普段使っている言葉を一度じっくり吟味したほうがよさそうだ。特に専門用語、仏教用語などは徹底的に咀嚼する必要がある。